宮嶋利治(みやじま・としはる)翁は、明治27年11月25日、宮嶋利吉、ヤエの長男として、この八代の地で誕生しました。幼少の頃は無口で温和な少年であったようですが、一面なかなかの理論家でもあり、納得のいかないことは徹底して究明するという性格であったといわれております。

翁は地元の代陽尋常小学校から旧制県立八代中学校に進まれ、大正2年同校を卒業すると、さらに早稲田大学に学び大学卒業後は東京国税局に勤務しました。
しかし、大正12年の関東大震災の後、その身を案じて上京した父、利吉の強い要請によって官途を辞し同年秋に帰郷し、その後はもっぱら農林業の経営に情熱を傾けました。

昭和9年には、熊本市の旧家、吉良米蔵氏の長女ミツル嬢と結婚しました。
ミツル夫人は戦前の八代高等女学校の教壇にも立った方ですが、昭和35年、病のため亡くなりました。その後の翁の日常生活は、簡衣、粗食、おごらず、畏るるところなく、まさに孤高そのものでした。来客あって談たまたま快を得れば、市政、国事を論じ、その理路整然たること驚嘆に値するものがありました。

しかし、晩年には足、腰を痛めて寝たきりの生活を余儀なくされ、昭和61年1月7日、92歳の天寿を全うして安らかに永眠しました。

宮嶋利治翁は生前、最近における世界各国の新しい技術開発競争を目のあたりにするにつけ、わが国が今後とも国際社会において指導的な役割を果たしていくには、科学技術の開発と教育および文化の振興を図ることが必要であると力説しておりました。それは同時に、激動する時代を生き抜いてきた気骨ある明治の人間にとって、国の将来を思う気持の発露でもありました。

そこで翁は、日頃の思いを具体化するため、質素な生活の中から蓄えた私財の全部を提供し、これをもって学術財団を設立し、科学と教育の振興に役立てて欲しいとの遺言を残しました。

翁の生前に親しくその声咳に接して来たわれわれは、故人の遺志を受けつぎ、昭和61年8月1日、熊本県教育委員会の許可を得て、財団法人宮嶋利治学術財団を設立いたしました。

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