坂田家資料~近代・八代の歩みをたどる~ | 公益財団法人 宮嶋利治学術財団

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坂田家資料~近代・八代の歩みをたどる~

公益財団法人宮嶋利治学術財団 坂田家研究担当 園田孝純

もくじ

【1】八代・坂田家について
【2】資料の内訳
【3】資料の収集経緯(概要)と資料の作業進捗状況
【4】資料の主な内容
【5】今後の事業について

坂田家資料~近代・八代の歩みをたどる~

【1】八代・坂田家について

熊本県八代市植柳下町に所在する坂田家は、坂田家の先祖・由来などをまとめた「旧記」によれば、豊後国(現・大分県)を拠点に戦国大名として北部九州に勢力を誇った大友氏の家臣・岩坂家を祖とする流れをくみ、戦国時代末期に肥後八代の地へ移住したとされる。

その後、江戸時代には坂田姓を名乗った初代・文蔵範治(ぶんぞうのりはる1769~1832)が萩原村や大福寺村など八代郡内の村庄屋などを務め、2代・重右衛門範英(じゅうえもんのりひで1807~1874)は「郡代直触」(ぐんだいじきぶれ)として熊本藩の八代郡代の下で村役人などを務めていることが、熊本藩の町方・郷方(村方)の記録資料である「町在」(まちざい 永青文庫所蔵)に見える。旧藩政下時代、坂田家は「地士(郷士・地侍)」であった。

明治時代以降は八代地方の干拓造成事業で中心的な役割を果たし、「明治新田干拓」(現・八代市金剛校区)や「郡築干拓」(現・八代市郡築校区)の造成など新地拡大に大きく貢献した。戦前までは、同じ八代市の米(よね)家や菊池郡大津町の江藤家、葦北郡田浦町(現・芦北町)の藤﨑家や八代郡宮原町(現・氷川町)の井芹家などと共に、熊本県下においては有数の大地主でもあった。

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一方で、明治時代末期からは地方政治や国政にも参画し、有力な地方素封家としても知られた。明治以降の当主である3代・貞(ただす1863~1937)は熊本県会議員(戦前は県議会は県会が正式名)などを経て、大正14(1925)年多額納税者により貴族院議員に選ばれ、昭和7(1932)年まで務めた。

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4代・道男(みちお 貞の長男 1887~1973)は旧制第五高等学校(現・熊本大学)教授から熊本県会議員などを経て、昭和12(1937)年に衆議院議員。昭和15(1940)年に八代市が市制施行すると初代市長に就任し、戦前2期、戦後は昭和30(1955)年から2期市長を務め、市街地や八代港の整備、厚生会館の建設など田園文化工業都市政策を推進した。

坂田道太

5代・道太(みちた 道男の長男1916~2004)は昭和21(1946)年に戦後初の衆議院議員選挙で初当選して以来、平成2(1990)年に政界引退するまで44年間衆議院議員(17期)を務めた。その間、厚相・文相・防衛庁長官・法相などを歴任し、昭和60(1985)年には第64代衆議院議長(熊本県からは初)に選出された。

 

なお、道男は昭和45(1970)年に八代市名誉市民、そして昭和56(1981)年には熊本県近代文化功労者に、道太は平成16(2004)年に八代市名誉市民となっている。

 

※備考

・「地士(郷士・地侍)」とは、城下町外の農村部などに居住していた武士身分を持った者を指す。

・ 4代・道男の旧制第五高等学校教授時代の教え子には、後に首相となった池田勇人や佐藤栄作らがいた。

・ 5代・道太は衆議院議員在職中、自民党に所属。平成元(1989)年4月にはリクルート事件で辞任した当時の首相・竹下登より後継打診を受けたが「三権分立の立場上、立法府の長たる衆議院議長を務めた者が首相になるのは好ましくない」と固辞している。

 

【2】資料の内訳

坂田家に所蔵されていた資料の内訳は、江戸時代の村庄屋や村役人を務めていた頃の古文書や古記録、明治時代以降の大地主時代の小作地に関係する地所(土地)証書類や金銭貸借証文類などの「文書類」、八代海の新地開(干拓)関連の図面(地割図)などの「図類」、内容は公私にわたる「書簡類」や「葉書類」、アルバムなどを中心とした「写真類」、専門書や和書・洋書から雑誌までを含む「書籍類」(特に道太の代が多い)、道太自身が描いた油絵などを含む「絵画類」、坂田家で使用されていた漆器や雛祭りの雛人形などを含む「道具類」、そしてこれも内容は公私に及ぶが、8ミリフィルムやビデオテープ(VHS)、カセットテープの「視聴覚機材類」などである。内容や分野からして多種多様な面に及んでいるが、同時に資料点数は膨大でもある。

 

【3】資料の収集経緯(概要)と資料の作業進捗状況

宮嶋利治学術財団では、平成20(2008)年12月に坂田家が所蔵していた古文書や古記録類などの収集を行った。しかし、これより以前に憲政資料室(国立国会図書館)が「坂田道太」に関連する資料調査・収集作業に入っており、特に政治関連の重要資料(道太が閣僚の頃に関係していた諸政策などの資料)などが収集されている。現在、宮嶋利治学術財団で保管している「坂田家資料」は、憲政資料室が収集を行わなかった分、残されていた資料である。宮嶋利治学術財団では収蔵庫を備えた専用研究棟を建設し、これら収集資料の保管を行っている。

その他、坂田家には道男が戦前から約44年間(戦時中と戦後しばらくは中断)にわたって購読していたロンドンタイムズが所蔵されていたが、こちらは平成11(1999)年12月に坂田家から熊本日日新聞社の新聞博物館へ寄贈されている。

「坂田家資料」の整理・調査・研究作業については、平成22(2010)年4月より本格的に開始した。各々の資料が持っている内容を読み取り、気づいた事柄や形状(大きさ・長さ)などを基本となる資料登録台帳に記述していく形で進めている。この登録台帳作成の作業は、将来電算化して資料目録の編纂・作成を進めていく際にも基礎となるものであり、長時間を費やすが絶対に必要不可欠な作業といえる。これまで整理・調査・研究作業が終了し、登録台帳に記録した資料点数は6348点(2014年4月18日現在)である。その内訳は以下の通りである。

 

・「葉書類」2016点      ・「図類」27点

・「文書類」2913点      ・「写真」13点

・「書簡類」 990点      ・「書籍」30点

・「その他」 356点      ・「絵画」 3点

 

「その他」とは、形状から分類できなかったものや資料の断片、資料を収納していた箱など。また、「文書類」や「書簡類」の中には個々の資料を紐や紙縒りでまとめて綴られているものがある。これらの資料については、関連する内容の類いとしてまとめられている可能性があり、その場合は残されてきた状態を崩さずに、一括した資料類として点数を数えている。

 

【4】資料の主な内容

現在までに整理・調査・研究作業が終わっている資料のうち、ここでは「葉書類」「書簡類」と「文書類」の大きく2つに分けて資料の内容について述べる。

 

【「葉書類」「書簡類」】

sakamotozenzo坂本善三からのはがき

 

時代的に明治以降、大正から昭和にかけてのものが多い。特に道男の代に関する資料が大部分を占める。道男が衆議院議員や八代市長を務めていたことから政治関連のものが目立つ。その一方で、女流歌人の安永蕗子(熊本市名誉市民)、画家の坂本善三や北八代、文化雑誌「日本談義」の主宰だった荒木精之(小説・思想家)、能楽師の櫻間道雄(人間国宝)、女性美容師として著名な吉行あぐり(作家・吉行淳之介、女優・吉行和子の実母)、ハンセン病研究の宮崎松記(八代市名誉市民)、南米アマゾン地域の調査で著名な上塚司(日本人の南米移民に尽力し〝移民の父〟といわれた上塚周平の従兄弟)、そして、永青文庫理事長だった細川護貞(元首相・細川護煕の実父)や美智子皇后陛下の実母である正田富美子など、さまざまな分野の著名人からの資料もあり、道男の交遊の広さが窺える。

道男の代以外でも、貞(道男の父)の頃には大手広告企業である「電通」の創始者・光

永星郎(八代郡宮原町〈現・氷川町〉出身)からの葉書、道太(道男の長男)の代には道太自身が自民党の衆議院議員を長年務めていた関係で、石井光次郎(元衆議院議長)や海部

 

俊樹(元首相)、橋本龍太郎(元首相)や森喜朗(元首相)、長谷川峻(元労相・元法相)や保利耕輔(元文相・元自治相)など当時の自民党有力議員からの葉書、そして、昭和39年(1964)に病気で退陣した当時の首相・池田勇人の後継として佐藤栄作が選出される経緯などを道太が速記していた書簡などもあった。

それから、残念ながら葉書や書簡そのものはないものの、明治35(1902)年頃から大正4(1915)年頃(途中、何度か中断を挟む)まで坂田家宛に届いた年賀状の差出人及びその住所などを記録した資料綴もあり、そこには思想家やジャーナリストとして著名な徳富猪一郎(蘇峰、水俣市出身)や明治・大正期の政治家・赤星典太など当時の著名人や有力者からの年賀状到達の記述も見られ、坂田家歴代当主の交流の幅広さを感じさせられる。

 

【「文書類」】

passport汽車時刻表

 

江戸時代、坂田家は村庄屋や村役人などを務めていたことから年貢米関連の資料や干拓地造成への金銭出費関連の資料などが見受けられる。明治以降では小作米や小作人関連の記録綴の他、八代はじめ葦北や球磨などの地所(土地)売買証書類が多くなっており、有数の大地主として成長していった坂田家の様子が窺える貴重な資料でもある。そして、道男が旧制第五高等学校(現・熊本大学)教授時代の大正9(1920)年~大正11(1922)年にかけて、欧州留学をした際に使用した所持海外旅券(今のパスポート)も残っており大変貴重な資料といえる。

また、幕末から明治時代初頭にかけて、非常時に備えた諸々事などを当時の坂田家当主が記述したプライベートな記録資料もあり、その中には、明治10(1877)年に勃発した西南戦争での混乱に備える当主の危機感迫る心境や周囲環境の様子が断片的ではあるが記述されている。西南戦争の場合、その殆どは当時の政府軍(官軍)や薩軍、若しくは県庁など軍や行政機関が記録した資料は膨大に残っているが、当時の一般社会からの視点という形の記録資料は非常に少ない。このプライベートな記録資料は、西南戦争当時の庶民や社会の様子の一端を窺うことができ、専門的にもかなり貴重な資料の1つと考えられる。

明治から大正の頃、八代にあった劇場の特別優待券や当時の薬の広告紙、昭和18(1943)年10月改正の国鉄八代駅(当時)の汽車発着時刻表(八代港発着の旅客船時刻も掲載、なお、家庭配布用と見られる)などもあり、各時代における八代の社会・風俗を知ることが出来る資料である。

一方で、昭和45(1970)年八代市の市制施行30周年にあたって、道男が特に戦前の市長在職時代などを述懐している手書き原稿(書きかけ)があり、そこには当時の軍部が八代を外地、特に南方地域への進出拠点と位置づけ、同時に南方地域からの軍需物資受け入れの拠点としても重視していたこと、それに関連する形で当時の八代市としては飛行場などの軍事施設や複数の大規模軍需工場を積極誘致することによって、市域全体の活性化事業を進める計画であったことなど、戦前の八代市の都市計画についての記述が見られる(この文章の完成したものは、昭和45年9月1日号の「広報 やつしろ〈市制施行30周年記念特集〉」に掲載された)。一首長経験者の述懐資料ではあるが、同時に当時の首長でなければ知り得ない事柄でもある。これらのことは、八代市の歩みに大きく影響を及ぼした可能性もあり、特に近代以降、熊本県内最大の「港湾工業都市」として変遷を辿ってきた八代を含めた、周辺地域の歴史などを考えていく上では重要な資料の1つかと思われる。

 

整理・調査・研究作業が終わっていない資料の中には、八代海の新地開(干拓)関係の図面(地割図)、そして、明治から昭和初期にかけて出版されていた日本初の総合雑誌である「太陽」(東京 博文館・刊)も大量に残されており、書籍資料としては貴重なものである。また、道太が文相(第2次佐藤栄作内閣)として全国に吹き荒れた大学紛争問題に対処していた頃、当時の自民党幹事長だった田中角栄(後に首相)が道太宛に出した紛争問題に関連するメモ、道太が防衛庁長官時代(三木武夫内閣)に閣議で速記していたメモを綴った資料(但し、資料状態はかなり悪化)などもあり、戦後政治史を見ていく上では大変興味深い資料といえる。

 

【5】今後の事業について

今後の「八代・坂田家資料」の調査・研究事業については、【3】の箇所でも前述したように、まずは事業そのものの根本となる資料登録台帳を引き続き作成していくことが中心となる。前年度に引き続いて資料登録台帳の作成作業、そして、徐々にではあるが、将来の資料目録の編纂・作成にも備えてコンピューターを使用した登録台帳の入力作業(電算化作業)も進めて行ければと考えている。

但し、「坂田家資料」の全般的にいえることは、これまでの保存状態が非常に悪かった影響のため、水濡れや虫喰い、そしてカビの発生などによって字体そのものが判読できないもの、閲覧そのものが不可能なものが多々見られる。そのため、前述した作業と並行して、温度・湿度の管理や薬品(防虫剤など)などを駆使した資料原本の保存状態の改善とその維持にも、前年度と同様に力を注いでいきたいと考えている。

これら「坂田家資料」は〝坂田家〟という1つの「家資料」であると同時に、【4】の箇所で紹介した資料からも窺えるように、近代・明治以降の大地主などの豪農層や素封家層の立場や活動、各時代の国や地方の政治・経済などの社会実態、そして各時代の地域の風俗・文化などを知るためのかけがえのない重要な「記録遺産」とも捉えられよう。そのような観点から、将来的にはこれら資料群を『八代・坂田記念文庫』として取りまとめたいとも考えている。