【1】 八代・坂田家について | 公益財団法人 宮嶋利治学術財団

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【1】 八代・坂田家について

【1】 八代・坂田家について

熊本県八代市植柳(うやなぎ)下町の坂田家は、豊後国(現在の大分県)を拠点に戦国大名として北部九州に勢力を誇った大友氏の家臣・岩坂家を祖とする流れをくみ、戦国時代末期に肥後八代の地へ移住したとされます。
その後、江戸時代には、萩原(はぎわら、現在の八代市萩原町一帯)村や大福寺(だいふくじ、現在の八代市大福寺町一帯)村など八代郡内の村庄屋や、「郡代直触」(ぐんだいじきぶれ、熊本藩の各農村部を統治する郡代の補佐役的な仕事を務める)として八代郡代の下で村役人などを務めていることが、熊本藩の町方・郷方(ごうかた、農村部のこと)の記録資料である「町在」(まちざい)に見えます。江戸時代、坂田家の身分は「地士(ちし、郷士・地侍のこと)」でした。
明治時代以降は、八代地方の干拓新地造成で中心的な役割を果たします。「明治新田(めいじしんでん)干拓」(現在の八代市金剛校区)や「郡築(ぐんちく)干拓」(現在の八代市郡築校区)の造成など新地の拡大事業に携わり、大きく貢献しました。
また、同じ八代市の米(よね)家や菊池郡大津町の江藤家、葦北郡田浦町(現在の芦北町)の藤﨑家や八代郡宮原町(現在の氷川町)の井芹(いせり)家などと共に、戦前までは熊本県下においては有数の大地主でした。

一方で、明治時代末期からは地方の政治や国の政治にも参画し、有力な素封家(そほうか)としても知られました。特に、明治時代以降の坂田家の当主たちは、地域の首長(しゅちょう、町長や市長など)や地域の議員、国会の議員などを相次いで務めました。
明治時代の当主である貞(ただす、1863~1937)は、元々高田(こうだ)村(現在の八代市高田校区一帯)の橋本家の長男として生まれましたが、親戚関係に当たる坂田家の当主が亡くなり、養子として坂田家に入りました。八代郡会議員や熊本県会議員(戦前は県議会は県会が正式名)を経て、大正14(1925)年からは多額納税者により貴族院議員に選ばれ、昭和7(1932)年まで務めています。「明治新田」など干拓新地の造成に尽力しました。ws000694

貞の長男である道男(みちお、1887~1973)は、旧制熊本県立八代中学校(現在の八代高等学校)、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)を経て東京帝国大学(現在の東京大学)へ進学し、東大卒業後は母校の第五高等学校の教授になりました。その後、政界へ進出し、熊本県会議員などを経て、昭和12(1937)年に衆議院議員に当選。昭和15(1940)年9月に、八代市が市制施行すると初代市長に就任し、戦前2期、戦後は昭和30(1955)年から2期市長を務めました。
市街地の拡充整備や工場群の誘致、国際貿易港としての八代港の整備、厚生会館の建設など「田園文化工業都市」政策を推進しました。昭和45(1970)年に八代市名誉市民、そして昭和56(1981)年には熊本県近代文化功労者になっています。

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道男の長男である道太(みちた、1916~2004)は、旧制熊本県立八代中学校(現在の八代高等学校)、旧制成城高等学校(現在の成城大学)を経て、父・道男と同じく東京帝国大学(現在の東京大学)に進みます。東大卒業後は、厚生省(現在の厚生労働省)や八代市役所に勤めました。そして、昭和21(1946)年に戦後初の衆議院議員選挙で初当選して以来、平成2(1990)年に政界引退するまで44年間衆議院議員(旧熊本2区選出・連続17期)を務めました。
その間、厚生大臣(現在の厚生労働大臣)・文部大臣(現在の文部科学大臣)・防衛庁長官(現在の防衛大臣)・法務大臣などを歴任しました。昭和60(1985)年には第64代衆議院議長(熊本県からは初めて)に選出され、1年半務めました。教育と国防の諸政策に詳しいハト派政治家として知られました。
地元には、文教都市としての充実を図るために、高等工業専門学校の誘致や大学の設立などに尽力しました(誘致・設立されたのが、後の国立八代高等工業専門学校〈旧・八代高専、現在の国立熊本高等専門学校八代キャンパス〉と私立中九州短期大学)。道太は平成16(2004)年に八代市名誉市民になっています。
物流・産業の拠点としての八代港や工業地帯などの整備、文化施設や教育機関の建設など、八代における坂田家が果たした役割、特に明治時代以降の当主である貞、道男、そして道太の「坂田家3代」が残した足跡は、八代の近代化に大きな影響を及ぼし、近代都市として発展し、熊本県下第2の都市として現在に至る八代の基礎を築いたともいえます。

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【備考】
※地士(郷士・地侍)とは、城下町外の農村部などに居住していた武士身分を持った者を指します。

ws000697※八代の工業地帯は、明治23(1890)年に操業を開始した日本セメント八代工場を皮切りに、大正13(1924)年の十條製紙八代工場(現在の日本製紙八代工場)、昭和12(1937)年の日曹人絹八代工場(現在の興人八代工場)、昭和14(1939)年の昭和酒造八代工場(旧三楽、現在のメルシャン八代工場)の4大工場が立地し、形成されました。昭和50(1975)年にYKK九州工場(現在のYKK-AP九州製造所)も進出し、有数の工業地帯となっていきました。これらの工場誘致には、当時の八代市の政治や国の政治に携わっていた坂田家の尽力がありました。しかし、日本セメント八代工場は九州第1号のセメント工場でしたが、昭和55(1980)年 に閉鎖されてしまいました。【写真・操業当初の日本セメント八代工場。現在はショッピングモール「ゆめタウン・八代」の敷地】

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※道男の旧制第五高等学校(現在の熊本大学)教授時代の教え子には、後に政治家や官僚などになった者も多くいました。戦後の高度経済成長期に所得倍増計画を掲げた池田勇人(いけだはやと)や、約8年近くの長期政権を担った佐藤栄作(さとうえいさく)の2人の内閣総理大臣経験者も道男の教え子にあたります。【写真・昭和43(1968)年11月、東京で開催された道男(左)の自序伝出版祝賀パーティーに駆けつけた当時の佐藤栄作・内閣総理大臣(右)】

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※道男が八代市長時代の昭和37(1962)年7月に完成させた八代市厚生会館は、熊本県内第1 号の本格的な公立文化施設でした。熊本市中央区の熊本市民会館(現在の熊本市民会館シアーズホーム夢ホール)が開館したのは、それより6年後の昭和43(1968)年1月のことでした。【写真・完成間近の八代市厚生会館の全景。八代城跡より望む。城跡の堀の周囲には民家などが建っていたことが分かる。昭和37(1962)年6月】

※道太は自民党の衆議院議員でした。平成元(1989)年4月にはリクルート事件で辞任した当時の竹下登(たけしたのぼる)内閣総理大臣より後継打診を受けましたが、「三権分立の立場上、立法府の長たる衆議院議長を務めた者が内閣総理大臣になるのは好ましくない」と固辞しました。

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