【4】資料の主な内容

ここでは「葉書(ハガキ)類」「書簡類」、そして「文書類」の3つの資料類の中で、現在までに整理・調査・研究作業が終わっているものについて触れていきます。

【「葉書(ハガキ)類」「書簡類」】
時代的に明治以降、大正から昭和にかけてのものが多く、特に道男の代に関する資料が大部分を占めています。道男が衆議院議員や八代市長を務めていたことから政治関連のものが目立ちますが、一方で、女流歌人の安永蕗子(やすながふきこ、熊本市名誉市民)、独特の画風で活躍し、「グレーの画家」と言われた坂本善三(さかもとぜんぞう、熊本県近代文化功労者)、女性美容師として著名な吉行(よしゆき)あぐり(作家・吉行淳之介、女優・吉行和子の母)、ハンセン病研究の宮崎松記(みやざきまつき、八代市名誉市民)、南米アマゾン地域の調査で著名な上塚 司(うえつかつかさ、日本人の南米移民に尽力し〝移民の父〟といわれた上塚周平〈しゅうへい〉の従兄弟)、細川護貞(ほそかわもりさだ、元内閣総理大臣・細川護煕〈もりひろ〉の父)や美智子(みちこ)皇后陛下の母である正田富美子(しょうだふみこ)など、さまざまな分野の著名人からの資料もあり、道男の交遊の広さがうかがえます。〈この後の添付資料1・2・3・4・5・6・7を参照〉

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道男の代以外でも、貞(ただす)の頃には、大手広告企業である「電通」(でんつう)の創業者・光永星郎(みつながほしお、雅号で「八火」〈はっか〉と称す、八代郡宮原町〈現在の氷川町〉出身)からの葉書があります。道太の代には、道太自身が自民党の衆議院議員を長年務めていた関係で、井光次郎(みつじろう、元衆議院議長)や海部俊樹(かいふとしき、元内閣総理大臣)、橋本龍太郎(元内閣総理大臣)、森 喜朗(もりよしろう、元内閣総理大臣)など当時の自民党有力議員からの葉書、そして、昭和39年(1964)に病気で退陣した当時の内閣総理大臣・池田勇人の後継として佐藤栄作が選出される様子などを道太がメモ書きしていた資料もあります。その他、アメリカやヨーロッパ諸国など海外視察に出掛けた先から父・道男宛てに出していた葉書や書簡もあります。その中には当時の海外情勢などが記されているものもあり、興味深い資料ともいえます。
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一方、本格的な整理・調査・研究作業に入っていない写真資料からでも、道太の頃には、鮮やかな青色の色彩をモチーフにして活躍した画家の海老原喜之助(えびはらきのすけ)や女流俳人の中村汀女(なかむらていじょ、熊本市名誉市民・東京都名誉都民)など、文化人との交流の様子がうかがえます。【写真・海老原喜之助(右)と歓談する道太(中央)。左端は道太の妻・三知世(みちよ)。昭和30(1955)年頃、東京港区福吉町の「れんが屋」にて。昭和45(1970)年9月、海老原がフランス・パリで亡くなった時、道太は日本から駆けつけた】

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それから、残念ながら葉書や書簡そのものはないものの、明治35(1902)年頃から大正4(1915)年頃(途中、何度か中断をはさむ)まで坂田家宛に届いた年賀状の差出人及びその住所などを記録した資料の綴もあります。そこには思想家やジャーナリストとして有名な徳富猪一郎(とくとみいいちろう、蘇峰〈そほう〉、水俣市出身)、明治時代から大正時代の官僚・政治家で、官選の熊本県知事などを務めた赤星典太(あかほしてんた、熊本市出身)といった当時の著名人や有力者からの年賀状到達の記録も見受けられ、坂田家歴代当主の交流の幅広さを感じさせられます。

【「文書類」】

特に、明治時代以降になると、八代をはじめとして、葦北や球磨などの土地の売買証書類が急に増え出し、熊本県下でも有数の大地主として成長していった坂田家の様子がうかがえる貴重な資料です。〈この後の添付資料8・9・10を参照〉それから、道男が旧制第五高等学校(現在の熊本大学)教授時代の大正9(1920)年から大正11(1922)年にかけて、欧州留学をした際に使用した所持海外旅券(今のパスポート)が残っており、大変貴重な資料です。〈この後の添付資料11を参照〉

昭和18(1943)年10月改正の国鉄八代駅(当時)の汽車発着時刻表(八代港発着の旅客船時刻も掲載)などもあり、各時代における当時の八代の社会・風俗・文化を知ることができる資料ともいえます。〈この後の添付資料12を参照〉

一方、道男は戦前と戦後それぞれ2期ずつ八代市長を務めましたが、特に戦前の市長時代(1940年9月~1946年11月)は第2次世界大戦の時期でしたので、「八代・坂田家資料」の中には太平洋戦争時の資料類も見受けられます。
戦局悪化の時期に作成されたとみられる空襲関係の防空(ぼうくう)活動の詳細を系統図にまとめたものには、空襲への消火活動に関することや、爆弾(焼夷弾〈しょういだん〉)の種類や威力によって及ぶ被害状況の違いなどが記されています。その他、警戒や空襲の各警報などについて詳細に説明した資料もあり、サイレンの鳴らす間隔や警鐘の打ち方での警報パターンや伝達方法の違いなどが記されています。いずれも空襲に対する当時の日本の体制の実態をうかがい知ることができる資料です。〈この後の添付資料13・14を参照〉
そして、昭和45(1970)年9月八代市の市制施行30周年にあたって、道男が戦前の市長時代の出来事などを手書きしていた原稿(書きかけ)もあります。そこには当時の軍部が八代を外地、特に南方地域への進出拠点と位置づけ、同時に南方地域からの軍需物資受け入れの拠点としても重視していたこと、それに関連する形で当時の八代市としては飛行場などの軍事施設や複数の大規模軍需工場を積極誘致することによって、市域全体を発展させる計画があったことなど、戦時下の八代市の都市計画についての記述が見られます(この文章の完成したものは、昭和45年9月1日号の「広報 やつしろ〈市制施行30周年記念特集〉」に掲載されました)。
一市長経験者の記憶資料なのですが、同時に当時の市のトップでなければ知ることができないことです。もし、これらのことが実現していれば、その後の八代市の姿は大きく変わっていたかもしれません。そういう意味でも、八代市の歩みに大きく影響を及ぼした可能性は十分考えられます。
明治時代以降、熊本県内で最大の「港湾工業都市」として変遷をたどってきた八代を含めた、周辺地域の歴史などを考えていく上でも、重要な資料の1つかと思われます。
整理・調査・研究作業が終わっていない資料類の中には、八代海の新地開(しんちびらき、干拓のこと)関係の図面、明治時代から昭和時代初期にかけて出版されていた日本初の総合雑誌である「太陽」(東京 博文館・刊)も大量に残されています。特に、「太陽」は貴重な書籍資料と思われます。
また、道太が文部大臣(現在の文部科学大臣)として、全国各地で起こっていた大学生による紛争問題に対処していた頃、当時の自民党幹事長だった田中角栄(たなかかくえい、後に内閣総理大臣)が道太宛に出した紛争問題に関連するメモ書きや、道太が防衛庁長官(現在の防衛大臣)を務めていた時に閣議で速記したメモを綴った資料(資料状態はかなり悪化)などもあり、戦後の日本政治を見ていく上では大変興味深い資料ともいえます。

【備考】
※太平洋戦争末期、八代郡文政(ぶんせい)村北新地(現在の八代市鏡町北新地)には「八代陸軍飛行場」(通称・文政飛行場)が建設され、八代市内には戦闘機の部品などを製造する「三陽航機株式会社八代工場」が八代市井上町、現在の「八代自動車学校」がある場所にありました。

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