【6】添付資料 | 公益財団法人 宮嶋利治学術財団

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【6】添付資料

1 「坂田道夫(男)宛ハガキ」 昭和33(1958)年 差出人・坂本善三(1911~1987)

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洋画家の坂本善三(さかもとぜんぞう)が、フランス・パリでの生活の様子などを伝える。

 

2 「坂田道男宛ハガキ」 昭和40(1965)年  差出人・宮崎松記(1900~1972)

ws000706ハンセン病研究や治療で尽力し、インドでの活躍が著名で〝救ライの父〟とも呼ばれた宮崎松記(みやざきまつき)からのハガキ。ハンセン病治療の病院建設に尽力する旨を伝える。

3 「坂田道男宛ハガキ」 昭和46(1971)年9月30日 差出人・吉行あぐり(1907~2015)

ws000707美容師の吉行(よしゆき)あぐりが坂田家から送られた写真と手紙への御礼などを伝える。あぐりは作家・吉行淳之介(1924~1994)や女優・吉行和子(かずこ、1935~)の母。

4 「Mr.M Sakata宛ハガキ」 年代不明9月16日  差出人・細川護貞(1912~2005)

ws000708細川護貞(ほそかわもりさだ)よりドイツ・ベルリンの旅について。護貞は旧熊本藩主細川家17代当主。熊本県知事や内閣総理大臣を務めた細川護煕(もりひろ、1938~)の父。

 5 「坂田道男宛ハガキ」昭和44(1969)年3月14日 差出人・正田富美子(1907~1988)
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美智子(みちこ)皇后陛下の母・正田富美子(しょうだふみこ)が坂田道男より送られた手紙への御礼を伝えたもの。正田富美子は佐賀の旧家・副島(そえじま)家の出身で、その父・副島綱雄と道男の妻・洋子(ようこ、1891~1934)はいとこの関係にあり、坂田家とは交流があった。

11 「坂田道男所持海外旅券」 大正9(1920)年9月11日

ws000711 ws000712 ws000713 道男が旧制第五高等学校(現在の熊本大学)教授時代の大正9(1920)年から約2ヶ年かけて、欧州留学をした際に使用した海外旅券(パスポート)。旅券が手帳型になるのは大正15(1926)年1月から。なお、旅券発行者の外務大臣・内田康哉(うちだこうさい、1865~1936)は八代郡竜北町〈現在の氷川町〉出身で、明治から昭和初期にかけて外務大臣を5回務めた。

12 「八代驛發着汽車時刻表」 昭和18(1943)年10月1日改正

八代駅発着の鹿児島本線(上り・下り)と肥薩線(山線)の時刻表。列車時刻からは「上り 鹿児島本線 八代発、京都行」といった長距離の普通列車などがあったことが分かる。当時は太平洋戦争の戦時体制下であり、軍用列車の運行が最優先とされ、旅客列車の運行には規制がかけられていた。また、八代港発の三角・天草方面への船便の時刻も掲載されており、海上交通の拠点でもある八代ならではの時刻表である。なお、平成25(2013)年3月の八代-松島(上天草市)間のフェリー運航休止をもって、八代港発着の定期フェリー・旅客船の運航は休止となった。この時刻表は一般家庭用として配布されたものと思われる。

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6 「芦原義信書簡」 昭和37(1962)年8月14日 差出人・芦原義信(1918~2003)

ws000715当時八代市長だった坂田道男に宛てた書簡。八代市厚生会館竣工のお祝い、その建設では設計を請け負わせてもらったことへの御礼など。芦原は日本を代表する建築家の1人で、八代市厚生会館のほか、昭和39(1964)年・東京オリンピックでの主要会場の1つとなった駒沢体育館(東京都世田谷区)や国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の設計にも携わった。

ws000716【建設途中の八代市厚生会館。熊本県内では第1号の公立文化施設であった】

ws000717【建設中の八代市厚生会館の現場より、当時の八代市中心市街地を望む。民家を挟んで八代城跡の石垣が見える。また右奥に見える白い高層ビルは大洋デパートの八代店。現在の本町アーケード街にあった。この大洋デパート八代店を中心に本町商店街は、県南の商業の中心地として賑わっていた】

7 「坂田 貞宛ハガキ」 大正10(1921)年7月13日 差出人・光永星郎(1886~1945)

ws000718光永星郎(みつながほしお、八火〈はっか〉)が、海外での活動などの様子をアメリカ・ニューヨークから坂田 貞(ただす)宛に出したハガキ。光永は大手広告企業である「電通」(でんつう)の創始者である。八火とは雅号(がごう、著名人や学者などが本名以外につける風雅な名前)。

10 「地所賣渡證」明治43(1910)年2月23日

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球磨郡湯前(ゆのまえ)村(現在の湯前町)の福永商人が所有していた土地2ヶ所(田)を坂田道男へ売却する旨の証書。特に、明治
に入ってから坂田家では、八代郡をはじめ、葦北郡や球磨郡など熊本県の南部地域の土地を次々に買収し、小作地化していく動きが多くみられる。その中でも、明治20年代から大正初期にかけて、土地買収に関する證(証)書類が大量に残されている。これらの資料は、熊本県下でも有数の大地主として成長していった坂田家の歩みを知る上でも貴重な「証明」ともいえよう。

9 「地所賣渡証」明治27(1894)年6月14日

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ws000722 八代郡松高(まつたか)村(現在の八代市松高校 区)の松井敏之(まついとしゆき、1865~1935)が、 同じ八代郡の金剛村(現在の八代市金剛校区)に所有していた複数の開墾地を坂田 貞(ただす)へ売却する旨の証書。松井敏之は、旧熊本藩筆頭家老・八代城代であった松井家の12代当主である。なお、松井家は明治25(1892)年10月に男爵(だんしゃく)の爵位を授けられている。

8 「譲地買入帳」明治15(1882)年2月

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ws000724江戸時代後期から明治18(1885)年まで、坂田家が買い入れた田畑などの耕地を記録した台帳である。台帳表紙には「明治十五年」と記されているが、江戸時代からあった元々の台帳を編纂し直した際の年代を記したのではないかと思われる。写真の箇所は、江戸時代の文政5年(1822)11月に、鳥井ノ前(とんのまえ)の又右衛門(またえもん)が所有していた田畑を買い入れたという記録。ちなみに、「鳥井(居)ノ前」とは、坂田家がある八代市植柳下町にある小字名である。

 

 

13 「防空活動系統図」 年代不明(内容から見て戦時中とみられる)

ws000725空襲関係の防空(ぼうくう)活動の詳細を図に示した資料である。空襲に対する消火活動 の内容のほか、投下される焼夷弾(しょういだん)の種類や威力ごとに予想される被害状 況の違いなどが記されている。しかし、実際の空襲において、資料にあるような消火活動 ではほとんどが対応できず、投下される焼夷弾の被害も甚大であり凄惨なものであった。
なお、この資料が空襲対策に関わる各役所の担当部署、もしくは一般市民へ配布されたものかは明確に分からないが、空襲へ対する当時の対応の様子がうかがえる資料である。

14 「防空警報傳達信號」 年代不明(内容から見て戦時中とみられる)

ws000726 当時の熊本県が発行した空襲へ対する防空警報の説明資料である。日中戦争が起こった昭和12(1937)年、「本土防衛に於ける民間防衛に関する法律」である『防空法』(ぼうくうほう)が制定され、初めて飛行機からの攻撃に対応するための基本的な法律が整った。この資料では『防空法』に基づいて定められた、さまざまな警報の伝達方法などが詳細に説明されている。住民の避難などに携わる各自治体の担当部署などへ配布されたものではないかと思われる。號報器(ごうほうき)とはサイレンのことである。しかし、太平洋戦争末期の頃には、日本本土へ近づいたアメリカ軍の艦船より飛び立った艦載機による突然の空襲が頻繁に行われるようになり、これらすべてに防空法にのっとった対応では追いつかないことが多かった。

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