坂田文庫だより第2回 | 公益財団法人 宮嶋利治学術財団

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坂田文庫だより第2回

第1回目の〝坂田文庫だより〟では、「坂田家資料」が近代の八代を考える上で、重要な「キーワード」となる資料の1つだということをご紹介しました。第2回目は、その資料を所蔵してきた「坂田家」について見ていきたいと思います。(文中敬称略)

「八代・坂田家」とは?

坂田家は豊後国(現在の大分県)を拠点に北部九州に勢力を誇った戦国大名・大友家の家臣だった岩坂家を祖として、戦国時代末期に八代の地へ移住したとされます。大友家といえば、キリシタン大名の大友義鎮(よししげ、1530~1587)、いわゆる大友宗麟(そうりん)が有名です。余談ですが、平成16(2004)年のNHK正月時代劇では、作家・遠藤周作の『大友宗麟 ~王の挽歌~』を基にした「大友宗麟 ~心の王国を求めて~」が放送され、俳優の松平 健が宗麟を熱演しました。(私にはどうしても「暴れん坊将軍」に思えてしまったのだが・・・)
江戸時代には萩原村(現在の八代市萩原町一帯)や大福寺(だいふくじ)村(現在の八代市大福寺町一帯)など八代郡内の村庄屋や、熊本藩が農村部を治めるために派遣した郡代を補佐する役目の「郡代直触」(ぐんだいじきぶれ)を務めるなど、村役人の立場にありました。江戸時代の坂田家の身分は「地士」(ちし)でした。地士とは、城下町以外の農村部などに居住していた武士身分を持った者や、武士の身分のまま農業に従事していた者などを指し、地侍(じざむらい)や郷士(ごうし)とも言われます。全てではありませんが、村庄屋などの役職には「地士」の身分を持つ人々が務めることが多かったようです。
明治時代になると、八代地方の干拓造成で中心的役割を果たしました。「明治新田(めいじしんでん)干拓」(現在の八代市金剛校区)や「郡築(ぐんちく)干拓」(現在の八代市郡築校区)の造成などに携わり、新地の拡大事業に貢献しました。
坂田家は同じ八代市の米(よね)家や八代郡宮原町(現在の氷川町)の井芹家(現在の氷川町まちつくり酒屋)、葦北郡田浦町(現在の芦北町)の藤﨑家(現在の赤松〈せきしょう〉館)や菊池郡大津町の江藤家(通称・江藤屋敷)などと共に、熊本県内では戦前まで有数の大地主でした。なお、江藤家の住宅は、一連の熊本地震で大きな被害が出ているようです。
一方で、明治時代末期からは地方や国の政治へも関わり、有力な素封家(そほうか)としても知られました。近代以降の坂田家の当主たちは、地域の首長(しゅちょう、町長や市長など)や地域の議員、国会の議員などを相次いで務めていきます。

 宮嶋利治学術財団で収集・保管している資料の大部分は、坂田家が政治の世界へ関わっていく時代のものなのです。資料の内容は、政治ばかりでなく、文化的なものから坂田家に関するプライベート的なものまで、実にさまざまです。
次回の〝坂田文庫だより〟からは、その時代の坂田家の当主であった3人の人物にクローズアップしていきたいと思います。

※「潮止め(しおどめ)」とは
干拓工事で建設されてきた堤防の最後の箇所を築き上げることにより、海水を堤防の内側、すなわち干拓地の部分から完全に遮断することです。この作業は潮が引いた際に、迅速かつ正確に行う必要があった干拓工事の中でも最重要なもので、失敗することは許されませんでした。工事の現場責任者はもちろんのこと、その下で働いていた人々は、この「潮止め」の前日には一睡もできず、緊張感でいっぱいだったかもしれません。
一方「潮止め」が完成すると、明治新田の「潮止め」の写真のように、人々は幟(のぼり)を立てて祝いました。そういう意味で「潮止め」は、干拓工事で最大のメインイベントだったとも言えます。「坂田家資料」の中には、明治新田関連の資料類が数多くあります。

潮止

【写真 明治新田の工事で「潮止め(しおどめ)」といわれる最終工事が完結し、幟(のぼり)を立てて祝う人々。工事は明治29(1896)年着工し、4回の堤防決壊を乗り越えて、明治33(1900)年に完成した】

※【追記】
坂田家の歴史については、坂田尚子さん(坂田道太氏・長女)が自費出版された『坂田家の祖先』に詳しい内容があります。この本は、尚子さんご自身が残っていた古文書類や過去帳、墓碑などを長年にわたって調査され、その成果をまとめられたものです。宮嶋学術財団での「坂田家資料」の整理・調査事業でも大いに活用させてもらっています。なお、私家版ということで非売品です。(『坂田家の祖先』 坂田尚子/編著 2011年)