第4回目の〝坂田文庫だより〟。5月に掲載した前回・第3回目では、坂田家の人物として初めて近代政治の世界へ進出した坂田 貞(ただす)について取り上げてみました。今回は、その貞の長男である坂田道男(みちお)について触れていきます。(文中敬称略)

坂田道男(みちお、1887~1973)は、旧制熊本県立八代中学校(現在の八代高等学校)、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)を経て東京帝国大学(現在の東京大学)へ進学し、東大卒業後は母校の第五高等学校で法学の教授になりました。大正9(1920)年から大正11(1922)年にかけては、法学を学ぶためにヨーロッパ諸国へ留学しました。道男の第五高等学校教授時代の教え子には、のちに内閣総理大臣を務めた池田勇人(1899~1965)や佐藤栄作(1901~1975)らがいました。
その後、政界に進出し、八代郡植柳村会議員や熊本県会議員などを経て、昭和12(1937)年に衆議院議員に当選。昭和15(1940)年9月、旧八代町が周辺の3ヶ町村と合併し、市制施行すると初代の八代市長に就任し、戦前2期、戦後は昭和30(1955)年から2期市長を務めました。

 近代工場群の誘致や国際貿易港としての八代港の拡充、球磨川の改修や市街地の整備など、経済・産業の振興に貢献しました。また、八代市全体の文化的な民度を向上させる拠点として八代市厚生会館を建設しました。当時の熊本県内で大型の公立文化施設はまだなく、八代の厚生会館はその第1号でした。(熊本市の熊本市民会館は昭和43〈1968〉年の開館)

道男の市政方針は、従来からある農業分野の維持・発展を進めながら、同時に経済・産業、そして文化・教養の各分野の振興・成長も伸ばすという「田園文化工業都市」政策でした。道男をはじめ、歴代指導者たちの尽力の結果、昭和39(1964)年には、地域の産業の発展・振興を図るための拠点を指定する「新産業都市」(新産都)の「不知火・有明・大牟田地区」の拠点都市の1つに八代市が指定されました。その後、巨大船舶の接岸を可能とするための八代外港の建設が行われることになりますが、それには「新産業都市」指定が大きく関係していました。
このように、道男が八代市長時代に進めた政策や事業は、近代都市としての基礎を築き上げ、その後の発展のきっかけを作ったといえます。

道男は昭和45(1970)年に八代市名誉市民、死去後の昭和56(1981)年には熊本県近代文化功労者になっています。プライベートでは、能楽や茶道をたしなむなど文化に造詣が深く、市民へ対しても分け隔てなく接するなど、気さくな人柄で親しまれました。
なお、次回・第5回の〝坂田文庫だより〟は9月頃に掲載の予定です。

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【写真 八代市長時代の道男(昭和35〈1960〉年)】