7月に掲載した第4回目の〝坂田文庫だより〟では、近代都市・八代の基盤を築き上げた坂田道男(みちお)について触れてみました。第5回目は〝丸メガネ〟がトレードマークで、国の政治に長年携わり、地元・八代地域の発展にも大きく関わった道男の長男・坂田道太(みちた)について取り上げます。(文中敬称略)
ちなみに、丸メガネに燕尾服、直立不動の姿勢で、戦前・戦中・戦後と激動の「昭和」を歌い続けた国民的歌手の東海林太郎(しょうじ たろう、1898~1972)をほうふつとさせる風貌も印象的でした。(あっ、ちょっと古かったかぁ・・・)

坂田道太(みちた、1916~2004)は、旧制熊本県立八代中学校(現在の八代高等学校)、旧制成城高等学校(現在の成城大学)を経て、父・道男と同じく東京帝国大学(現在の東京大学)へ進みました。東大卒業後は、厚生省(現在の厚生労働省)や八代市役所に勤めました。そして、昭和21(1946)年4月に行われた戦後初の衆議院議員選挙で初当選して以来、平成2(1990)年に政界引退するまで44年間衆議院議員(旧熊本2区選出・連続17期)を務めました。

 その間、厚生大臣(現在の厚生労働大臣)や文部大臣(現在の文部科学大臣)、防衛庁長官(現在の防衛大臣)や法務大臣などを歴任しました。昭和60(1985)年には熊本県から初めて衆議院議長(第64代)に選出され、1年半務めました。
特に、文部大臣在任中には全国各地で吹き荒れた大学紛争の収拾と鎮静化にあたり、防衛庁長官時代には国家安全保障政策の基本となる、わが国初の「防衛計画の大綱」を策定するなど、教育や国防の諸政策に詳しいリベラル派の保守政治家として知られました。

平成元(1989)年には、リクルート事件で辞任した当時の内閣総理大臣・竹下 登(1924~2000、タレント・DAIGOの祖父)の後継候補の1人として名があがります。しかし、「議会制民主主義の立場上、国権の最高機関は議会であり、その議会の〝長〟を務めた者が、総理大臣を務めることは好ましくない」と固辞しました。

地元には、文教都市の充実を図るために、工業高等専門学校(高専)の誘致や大学の設立などに尽力しました。その結果、国立八代工業高等専門学校(旧八代高専、現在の国立熊本高等専門学校八代キャンパス)と私立中九州短期大学の誘致・設立が実現しました。
また、複数の大型船舶の着岸を可能とするための八代外港埠頭の拡充事業や、YKK九州工場(現在のYKK-AP九州製造所)の誘致といった八代外港周辺の工業地帯の整備、九州縦貫自動車道の八代までの延伸、八代インターチェンジ(IC)と八代港とのバイパス道路(現在の臨港線)建設の促進など、経済・産業・交通体系の振興・整備にも貢献しました。

道太は死去した平成16(2004)年、八代市名誉市民になっています。昭和45(1970)年には父・道男も名誉市民となっており、親子2代での名誉市民ということになりました。

農業振興のための干拓や新地の造成、経済・産業・物流の拠点としての八代港や近代工場群を中心とした工業地帯の整備・拡充、文化施設や教育機関の建設など、第2回から今回の第5回までの〝坂田文庫だより〟で見てきたように、八代における「坂田家」が果たした役割、特に明治時代以降の当主である貞(ただす)、道男、そして道太の「坂田家3代」が残した足跡は、八代の近代化に大きな影響を及ぼし、近代都市として発展し、熊本県下第2の都市として現在に至る八代の基礎を築いたともいえるでしょう。

なお、次回・第6回の〝坂田文庫だより〟については、11月頃に掲載の予定です。平成29年最後の〝坂田文庫だより〟となります。

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【写真 衆議院議長の頃、衆議院議長公邸で記念写真におさまる道太(昭和60〈1985〉年)】