第6回目の〝坂田文庫だより〟。今回は「八代・坂田家資料」の整理・調査に携わっている担当者としての思い、考えを書いてみました。

この八代で近世・江戸時代を中心とした資(史)料類については、みなさんもよくご存知の通り、八代市立博物館・未来の森ミュージアムや熊本大学などが中心となって整理・調査・研究が進められてきました。しかし、近代・明治時代以降の資料類については、一部の写真資料類を除いて、そのほとんどがなされていない状況にあります。

「八代・坂田家資料」は〝坂田家〟という、ある1つの民家に残されていた「家の資料」なのですが、同時に近代・明治時代以降の素封家や大地主の立場や活動、政治や経済などの社会実態、地域の風俗や文化などを知るための「キーワード」を秘めた、かけがえのない重要な『記録遺産』であると思っています。

 ここ数年ですが、〝近代〟という時代に注目・関心が高まりつつあります。熊本県内の旧三池炭鉱万田抗(荒尾市)や三角西港(宇城市)を含む「明治日本の産業革命遺産」がユネスコの世界文化遺産に選ばれたことも大きなきっかけだったと思います。(「旧日本セメント八代工場の赤レンガ工場群や巨大回転窯、JR八代駅から各工場地域への〝引っ込み線〟跡〈現在の緑の回廊〉がそのまま残されていたならば、きっと世界文化遺産の候補にもなっていたかも」と、個人的には思っています。〝引っ込み線〟跡については、レールは撤去されていましたが、平成に入ってもしばらくは線路跡の遺構が、雑草が生い茂りながらも残っていたと記憶していますが・・・)

また、太平洋戦争の終結から72年。戦争の記憶風化が急速に進む中で、兵器の製造工場や航空隊基地の遺構など、近代戦争遺構の保存の重要性も指摘されはじめました。熊本でも「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」をはじめとする民間の有志団体が調査を進めるなど、それらに関する動きも活発になっています。

私たちが生きている現代は、過去の時代からさまざまなことを受け継いでいます。その過去の時代の中で、特に近代は「電気」や「ガス」、「水道」、「製鉄」や「セメント」、「造船」、「鉄道」や「自動車」などなど・・・。現代とは密接な関係があるものが生み出された時代です。その近代に残された資料を見ていくことは、時代の様子やこれまでの歩みを知ることだけではなく、私たちが生きている現代社会を考える上でも何らかの〝ヒント〟が得られるかもしれません。みなさんはいかが思われますか?。

宮嶋利治学術財団での「八代・坂田家資料」の整理・調査には、まだまだ時間がかかる状況です。しかし、このFacebookを通して情報を発信し、少しでも多くの方々に〝近代の八代〟あるいは〝近代〟という時代に興味・関心を持って頂ければ大変嬉しく思います。

年内の〝坂田文庫だより〟は今回の第6回で最後となります。1月・3月・5月・7月・9月・11月と、隔月のペースで皆様に情報発信してきました。最後までご覧頂き本当に有り難うございました。
なお、次回・第7回の〝坂田文庫だより〟は、年が明けて平成30年1月頃の掲載を予定しています。それでは皆様、少し早いようですが、どうぞよいお年をお迎え下さい。

※【追記】

今年1月から〝坂田文庫だより〟をFacebookに掲載し、情報を発信しています。〝坂田文庫だより〟の第1回目を掲載したのが1月13日。実は、この日は「八代・坂田家資料」の元所蔵者であった坂田道太さんのご命日でした。
平成2(1990)年1月の衆議院解散で政界を引退されてからは、母校でもある東京の成城学園の理事長を務められましたが、ほとんどの公職からは身を退かれていました。
プライベートでも、晩年は東京・成城で過ごされ、最晩年には故郷・八代に帰られ、親族ら身近な人以外とは距離を保って晴耕雨読の生活を貫かれていました。そして、平成16(2004)年1月13日午後、八代市内の病院で亡くなりました。享年87。それから13年・・・。本当に時が経つのは早いものだと感じています。

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【写真 八代市植柳下町の坂田家住宅。かつては、住宅を囲むように数多くの蔵があり、広大な庭には茶室や観音堂などが建っていた。坂田家は、近代・八代の歩みを見ていく上では欠くことができない存在の1つである】