私たち宮嶋利治学術財団では、八代市植柳下町の旧家・坂田家に所蔵されてきた膨大な量の歴史・文化資料を収集し、整理・調査・研究を進めています。宮嶋学術財団のHPでは「坂田家資料 近代・八代の歩みをたどる」というコーナーを設け、そこで整理・調査・研究の詳細な報告や、「坂田家資料」の資料類を紹介しています。宮嶋学術財団では「坂田家資料」を将来的には「八代・坂田記念文庫」として取りまとめていきたいとも考えています。
【宮嶋学術財団・坂田家資料】 https://zaimiyajima.jp/sakata2016-0/
そこで、今回から〝坂田文庫だより〟と題して、この宮嶋学術財団のFacebookでも「坂田家資料」の情報を掲載・発信していきたいと思います。第1回目は、「坂田家資料」というものの重要性について触れてみたいと思います。
「八代・坂田家資料」の重要性
坂田家がある八代市は、熊本市に次ぐ人口がある熊本県下第2の都市であり、県内最大の臨海工業港湾都市としても発展してきました。
八代は鎌倉時代から室町・戦国時代にかけて、妙見宮(八代神社)の門前町、古麓(ふるふもと)城の城下町、天然の良港であった徳渕津(とくぶちのつ)の港町として栄え、当時は肥後で最大の「都市」でした。
小西行長の領地時代を経て、江戸時代には熊本藩主・加藤家により近世の八代城が築城され、その後藩主が細川家に代わると、筆頭家老の松井家が八代城に入り、八代は松井家3万石の城下町として繁栄を極めました。遠浅の八代海では干拓も盛んに行われました。
近代・明治時代以降になると、セメントや製紙、酒造などの近代工場が相次いで進出・立地し、鉄道や道路の延伸、八代港の整備が進められ、産業や経済が発展するにつれ、市街地も急速に拡大し、近代都市としての形が整いました。
このように、近代以前の「城下町」などが基礎となり、さらに近代のさまざまな発展が重なり合って、現在の八代市が形作られたといえます。特に、近代に入り八代の街が大きく変貌したのには、坂田家など八代の歴代指導者たちの果たした役割が大きかったといえます。
近代以降、坂田家からは市長や県議会議員、国会議員などが出ており、地域指導者の中心的立場にありました。その坂田家の資料を調査・研究することは、近代・八代の歩みを見ていく上で重要な「キーワード」になるかと思われ、坂田家の果たした役割を伝えていくことは大切であると考えています。
【写真 九州第1号のセメント工場だった日本セメント八代工場。明治23(1890)年に操業。近代・八代の発展の先駆けとなった。昭和55(1980)年に閉鎖。現在は大型ショッピングモールの「ゆめタウン・八代」となっている】