3月に掲載した第2回目の〝坂田文庫だより〟では、これまで「八代・坂田家資料」を所蔵していた「坂田家」について、主に近代以前までの坂田家のことについて詳しく見てきました。第3回から第5回までの〝坂田文庫だより〟では、近代・明治時代以降、政治の世界へも進んでいった当時の坂田家について、その中心にあった3人の当主について触れていきたいと思います。この3人は政治家として、近代・八代の歩みにも深く関わっていくこととなります。第3回目の今回は坂田 貞(ただす)についてです。(文中敬称略)
明治時代の当主である坂田 貞(ただす、1863~1937)は、元々高田(こうだ)村(現在の八代市高田校区一帯)の橋本家の長男として生まれましたが、親戚関係に当たる坂田家の当主がなくなったため、養子として坂田家に入り当主となりました。
東京にあった漢学塾の二松學舍(にしょうがくしゃ、現在の二松學舍大学などを運営する「学校法人・二松學舍」の前身)で学び、その後帰郷し、八代郡植柳村会議員や八代郡会議員、熊本県会議員(戦前までは「村議会」や「県議会」などは、「村会」や「県会」が正式名)を務めました。大正14(1925)年からは多額納税者により貴族院議員に選ばれ、昭和7(1932)年まで務めました。その他に、九州商業銀行(現在の肥後銀行の前身)の取締役や九州新聞社(現在の熊本日日新聞社〈熊日〉の前身)の監査役なども務めています。
一方で、「明治新田(めいじしんでん)」など干拓の造成にも取り組み、八代地域の農地拡大に大きく貢献しました。この貞は、坂田家としては初めて近代政治の世界へ入った人物であり、その後政治と密接な関係を続けていくこととなる『政治家・坂田』の流れを作ったともいえるでしょう。ちなみに、貞の孫で文部大臣(現在の文部科学大臣)や防衛庁長官(現在の防衛大臣)、衆議院議長などを務めた道太(みちた、1916~2004)は、祖父のことを「貞(てい)じいさん」と呼んでいたようです(インタビュー 〝坂田衆議院議長に聞く 時代を負わされた運命〈さだめ〉の政治家〟 【「国会月報 1986年2月号」国会資料協会 1986年】より)。
なお、次回・第4回の〝坂田文庫だより〟は7月頃の掲載を予定しています。
【写真 古希の記念撮影での貞(昭和8〈1933〉年4月)】